想いの重量

作詞家 あとじまこと 撮影 カナダの空

想いの重量

今からおよそ2500年前、仏陀は、身体は不浄であると説いた。

この世の全てを不浄であるとみなさいと、

それは泡沫のようなものであると、陽炎のようなものであると説いたのだそうです

6つの感官(眼耳鼻舌身意)により、魅惑を感じ、欲を生じる人体。

生まれ消えるように、入れて排出する。

美しく見える物体は、形状であって、本質ではない。

ならばその奥にあるもの。

6つの感覚のうちの「意」にあたる心。

それが物体でないとすれば、心だけは清らかにすることができるのでは・・・

と思うのです。

先日、富山大学の環境生物科教授にお会いする機会があったので、次回お会いできたならそのあたりをぜひ教えていただきたいと思っているのです。

何をお聞きしたいのかというと、〜心には重力があるのでしょうか〜ということ。

心というものがこの世界に存在するのであれば、重力が生まれると思うのです。

重量ではなくて、重力。心というものは空中に浮かび漂っているイメージなのですが・・・。

心もまた大地から引き寄せられているのかどうか。

何かを拠り所とするからこそ、心があるように思えるのです。

何も拠り所を持たずに、心は存在できるのかという。

そういうことも尋ねてみたいのです。

もしかしたらそのときは、ひとつになったときなのかもしれないですね。

いずれ、この身体を拠り所とする世界から

向こうの世界へと向かうことが、もしもあるのだとすれば、

(人生を終えても、それは概念として物体の消滅というだけのお話という考え方もあります)

物体のない「想い」「思い」だけの世界に入ると

嘘偽りは通りません。

思ったままがそのままで伝わる世界。

今、ぼくたちが住んでいるこの世界では、

心をコントロールできていない生命体ばかりのような気もします。

怒り・貪り・疑いという

3つの害ある想いをコントロールすることが、この世界での修行なのであれば、

あまりにも世界は、甘さと便利さに満ちて、それは昭和の時代のそれとはちがい、

人々を比べさせてしまい、劣等感や猜疑心、

または他者を攻撃してしまう防衛反応などを呼び起こす引き金となっている。

何かを手に入れれば手に入れるほどに、虚しさと業が増えるということが本質であれば、

重量をことごとく減らし、やがて「思い・想い」のみのような存在となり、

いや、「重い」を外した「思い」→「心」として

この心で考えていることが、何の塀もなく壁もなく

スッと伝わるような、そんな生き方ができれば幸せだなと思います。

人生の修行はまだまだ続くのでしょう。

世の中は先が見えず、状況が加速しながら移っているのに、

人々はまた忘れることで、快の日々を取り戻そうとしている。

心と心が動かしているこの地球という自転する惑星。

浮いている世界である浮世・憂き世。

自転車に乗る子供達、バスを待つ少女達などを見ると

「幸せな人生を」とただただ願ってしまう。

いつも大学生のような気持ちでいますが、自分も年老いたのだなと思います。

どうか、世界よ幸せであれ。

万物の心よ、清らかさとともに、幸せであれ。

 

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